踊ろうとして踊っているのではない人、、
文句なしにとーーっても面白かったです!かなり好みでした!もしDVD出たら買います。中島敦 原作「悟浄出世」SePT 1列目にて観劇。「私とは何ぞや?」と妖怪や賢者へ教えを乞う悟浄(西遊記の沙悟浄)が、蝦(えび)の精の深奥な哲学に触れ、50日に一度しか目覚めない坐禅の賢者に辛抱強く教えを乞い、鯰の妖怪には喰われそうになり、五百余歳で淫靡な楽しみに耽る女怪の求める道を聞き、、ある時ふと求めていた答えはそこにないと思った瞬間に世界が輝いて見える。その後もまた「何故?」と問い続けるのだが以前とは違う境地にいる。。という物語。出演者は7名。萬斎さんが悟浄役(カッパの沙悟浄)で中央にて語り続け、他6名の狂言師がそれぞれ4-5役分を担当。何しろ狂言師なのでみな滑舌のよさが絶対的に気持ちよく、絶妙の間の取り方や声色の使い分けが最高。石田幸雄氏扮する'荒れ地の魔女'も顔負けな女怪、佐藤友彦氏の祈祷師や醜い乞食など最高によかったです。また僧侶のセリフ(野村又三郎氏)に声明調の謡と鼓をとりいれたり、効果音は尺八と打楽器の二人だけが空間アートのように必要最小限に鳴らす。舞台装置もシンプルで感覚を研ぎ澄ませて参加できる感じでした。印象に残ったセリフ「渦に飛び込むしかないとわかっていながら、飛び込む人を見て哀れんだり疑ったりして留まっている。懐疑的傍観者でいるより飛び込んだ人の方が少なくともしあわせそうだ」[今日のプログラム]狂言「柑子」出演:太郎冠者ー野村萬斎、主ー石田幸雄「那須与市語」出演:野村万作-休憩20分-「悟浄出世」出演:野村萬斎、深田博治、高野和憲、月崎晴夫、佐藤友彦、石田幸雄、野村又三郎 尺八:藤山道山 作調・囃子:田中傳次郎・・前半の感想。狂言「柑子」は石田幸雄氏で完全な死角になり、肝心な太郎冠者=萬斎氏の表情が全く見えず。。しかし人間国宝・万作師の「那須野与市語」では細かい表情もよく感じられ、迫力或る語りを有り難く堪能できた。
YouTubeで伝統芸能をハシゴ。。初めてこの映像で雅楽の演奏を観ました。舞(舞楽)もあります。宮内庁の楽団でしょうか?和を超えた衣装やリード楽器の音色のためか、日本固有というよりアジア全体の伝承ものという感じがします。日本では1000年も前から雅楽が伝承されてきたそうです!同じ神の領域を扱う芸能だとしても、例えば「能楽」は演者がその技と気迫で神や鬼を表出させ地上で物語を展開する感じだけど、「雅楽」では演者の意識はあまり関係なく音や舞そのものが別世界の写し絵という感じでいきなり天上絵の世界みたいです。余談ですが映画「陰陽師」で伊藤英明氏演じる源 博雅が吹いていたのは、宮中に仕える殿上人だからか雅楽で使う'龍笛'ですね。
以上、完全なる私見ですが、なんだか面白いなぁと思ったので!
踊るために生まれて来た人がいるのだなと感動した件について
能楽師笛方、藤田六郎兵衛さん主宰の「萬歳楽座(まんざいらくざ)」に行って来ました。藤田六郎兵衛さんはもとより、大鼓の亀井広忠さんをはじめ、すべての方々が気迫に満ちてとてもすばらしかった!萬歳楽座今回は特に能「道成寺」がよかった。大きな鐘を舞台へ運び込んで天井へ吊すところから始まり、シテが鐘の落下と共に中へ飛び込む見せ場などてんこ盛りなあの曲です。舞台上は一流の能楽師の方々ばかり。狂言方の"能力”という役割で野村萬斎さんもしばらく舞台上の囃子方と地謡の間あたり(右奥の柱の前)に待機していました。個人的には萬斎さんが能に登場する時がキリッとして一番好きです。シテが"鐘入り"する前に舞う、時が止まったような永い時間。鼓と舞の時が止まったような永い永いかけあい。。緊張感と美しさと哀しさと、、、初めて能を観て泣けてしまいました。。白拍子は観世清和さん、鼓は大倉源次郎さんでした。*何しろ本当にものを知らずに観ているもので後から知ったのですが(汗)この場面は'乱拍子'と言って、道成寺では有名な見せ場だそうです。。ナマの気迫をリアルに体験できて本当によかったです。緊張感クライマックスになり、シテが落ちてきた鐘に入る。祈祷によって鐘から出てくると蛇の姿になって逃げていくという物語。蛇の姿は女の情念を表している。何とも哀しい恋の物語です。
野村万作さんが盲目の夫役を演じた「川上」素晴らしかったなー。新宿狂言vol.16目が見えるようになって新たな人生に向かう気持ちと、別れずに連れ添っていきたいと懇願する妻への深い愛情や諦めがしみじみと感じられた。神のお告げであろうと妻との時間であろうとどちらを選んでも人生で、正解も間違いもないのだなーと考えさせられた。どっちにすればよかったのにと外からあれこれ言うことはできるけど、その人の深みにしかわからないことが確かに存在するのだなとこの曲を観ているとよくわかる。この日は演劇のような舞台装置もある企画で、最後のシーンでふたり手を取って光の方へ歩いていく場面は本当に美しかった。その姿には会場からもため息がもれた。狂言はショートコメディ、笑いの一種ではあるけれど、万作さんが常々心がけているという「品の良さ」「美しさ」の意味、違いが初めてわかった気がした。
面白い日でした。古典芸能を現代化する舞台を偶然2つハシゴしました。一つ目は「現代能楽集Ⅳ・奇ッ怪其ノ弐」能楽の構造とストーリー展開を元にした現代劇。二つ目は、知人のお箏の現代作曲家先生が出演する演奏会。曲の偵察とごあいさつも兼ねて。現代能楽集は野村萬斎・企画監修によるシリーズで「能の根本にある神や亡霊や鬼といった'人智の及ばぬ力'、スピリチュアルなものとの対峙、死者や生者の魂を鎮めるという発想、劇構造 by MANSAI、パンフより勝手に総括。。」を根底のテーマとしながら、その夢幻能の構造に沿うかのように前川知大氏が書き下ろし、監督をしている。311を意図したわけではないというが、災害で全滅した故郷の人々が営んでいたドラマや想いがストーリーの中心だった。観客はそれを幻と知らずに引き込まれていく。しばらくぶりに無人の故郷を訪れた神主の息子が出会う者たちの不可思議な行動のループ。そのループの意味に息子が気づいた時、出会った者たちと息子に鎮魂が起こり、ドラマは終結する。果たして誰が生者で誰が亡き者か観客が混乱する感じは、映画「シックスセンス」にオーバーラップする。最後にわかる仲村トオル氏の役の意味と息子の驚愕。。深い。ほろっときてしまった。能を見ていて時折ほろっとくる亡霊の健気さと儚さ、そして生きて弔う者の強さと癒しをそこに見た。SePT現代能楽集野村萬斎氏が出演、演出、企画等関わる舞台には、いつも何かしら強い意図めいたお土産を頂くというか、余韻や宿題のような、その場限りでは昇華しきれない心地よいクセと忘れられない残り香を感じます。箏の演奏会は、現代作曲家・演奏の先生方が生み出した代表的な大曲を3時間にわたって10曲演奏するプログラムでした。箏人口が衰退しつつあった昭和30年代に邦楽の現代音楽家集団が集まり、箏を絶滅させてはならないと現代感覚の作品を創作・発表して邦楽人口の増加に貢献してきたそうです。日本は元々音をずらして粋とする伝統があったので、西洋的にリズムをきっちりそろえる音楽は当時とても難しかったそうです。しかし音だけで表現する世界が故か、縦社会構造が故か、時代の変化と共に新しい風を入れることが必須になったようです。私の知人の作曲家の先生は、邦楽界の縦社会から脱して箏と西洋楽器の融合で新陳代謝を試みている方。終演後に楽屋で今日の感想を話し合い、西洋フルート族としてはこういうのもやりたいんですという要望も伝える。今後の邦楽と西洋楽器の協定を結んできました(笑)劇場を久々にハシゴしてみて、やはり劇場はいいものだなと思いました。表現者が最高の見せ場を創ろうとし、観客もその空気を最大限体験しようと集中する空間。その場に居合わせる度に、何かが充電されていきます。
大好きなロシア人作曲家、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」よりモンタギュー家とキャピュレット家(Dance of the Knights)です。バレエは同じくロシアのボリショイ・バレエ。 ロミオとジュリエットがそれぞれ歴史的に対立中のモンタギュー家とキャプレット家出身でありながら、純粋なハートから惹かれてしまったという、その情熱にまかせた勢いや迷いがこの美しくも不安定な曲の中にとてもよくあらわれていて、いつ聞いてもドキドキ色あせない音楽です。